昭和47年4月29日 朝の御理解
                         中村良一


立教神伝の最後のところ、「此方のように、実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも、難儀な氏子あり、取り次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神。神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き。」ね。
立ち行き、立ち行くという事。その日その日が立ち行けば楽じゃと仰る。立ち行くという事。立ち行くおかげを受ける。それを、立教神伝に見ますと、只今、申しましたように、此方のように、実意丁寧神信心いたしておる氏子が、えー、ここの辺のところが、大変、問題になり難しい所ですよね。
例えば、信心はしておる、信心はしておるけれども、世間には、なんぼも、沢山な難儀な氏子があると言う風に、感じられるところですが、そうではないですね、ここは。実意丁寧神信心いたしておる氏子が、此方のようにとある。だから、教祖金光大神に、天地の親神様が仰っておられる、ね。天地の親神様が、お前のように、実意丁寧神信心しておる氏子がと言うのです、ここは。お前のように、実意丁寧な神信心をしておる氏子が、ね。世間になんぼうも、難儀な氏子あり、取り次ぎ助けてやってくれと。
そこんところで、大変、決まってくるわけですね。これ一遍、ずらっと読むと、意味が大変違ってくる。句点もなからなければ、丸も売ってないですから、一番間違いやすいところですね。けれども、実意丁寧神信心いたしておる氏子が、教祖様のような、実意丁寧な信心をしておる氏子でなからなければ、取り次ぎ助けてやるという事は出来ない。神も助かり、氏子も立ち行く。氏子あっての神、神あっての氏子、繁盛いたし、末々、親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立ち行くと。
私は、今日、この立ち行くと言うことのおかげを頂くという事。ね。とにかく、今日、一日が立ち行けばという事。そこで、まぁ、お互いが、銘々の立ち行きを願うわけです。そこに、何時も立ち行きますようにと言うて願うわけです。ね。ところが、その、それでは、すっきりしておった立ち行きもならないように思うですね。いつも、立ち行きを願う。どうぞ、今日も立ち行きますように。立ちいっているのだけれども、立ち行きようが悪いと、いわゆる、北野の中村さんがもう、十何年も前のことでしたけれども、あそこは、お神様が二階にある。神様を願わすと、二階に上がって、御祈念を一生懸命なさる。一生懸命、お願いをしておられるうちに、うとうとと眠られた、御祈念中に。ね。そしたら、それこそ大きな厳しい声でですね。「おかげの頂き足らんごと思うとる」と言うお声を頂かれたち言う。ね。毎日毎日、立ちいっているわけですよ。ね。
もう、例えば、中村さんでいうならばです。本当に、少しばかりの履物を、風呂敷に包んで、そして、村から村とこう売って歩いておられるような時代があったんです。私が、もう私も、一番、艱難辛苦の時でした。北野にずっと、お話しに行っておる、北野の教会にお話いっておる時分に、私が、中村さんの出会いがあったわけです。二人の娘、それから、家を借っておられるご主人という方は、あの、何ですかね。仏師というですか、仏壇なんかを作られる職人さんでした。大変、真面目な方でしたけども、大変、お酒が好きで、お酒のために、いつもその、まぁ、失敗をされるといったような、大変酒好きの方でした。そういう中で、なら、金光様におすがりさせて頂いて、おかげを頂き。ささやかながら、履物、まぁ、ああいうね、お婆さん一つの手で、履物を、ま、自分で座っておって売れれるように、ね。立ち行くようになったわけです。ね。少しばっかり仕入れて来ては、それを売る。少しばかり仕入れては売る。もう、仕入れさ秋のほうも、向こうのほうから来てくれるようになり、ちゃんと座っておって、まぁ、中村さんが立ち行かれるだけの事、立ち行くぐらいのことじゃない。あそこの土地を買われ、家を建てられましてね。そして、二人の願いであったところの娘さん達が、本当に願っても無いような、良い養子を頂かれて。ほらもう本当に、あの時分のあの人の信心は、ある意味では目ざましかったですよね。もう、それこそ、もう、その当時の椛目通いというのは、ただ唯一の楽しみ。後はもう、一生懸命、あの商売に精を出されると言う。ね。今でこそ、その金額のことは、大したことは無いですけれども、どうやら、もう、約二十年前に、毎日、五百円づつの御初穂をなさいましたからね。もう本当に、まぁ、その時分は、まぁ、百円のお初穂というのが、当時相場でした、ほとんどの人が。ね。
そしてその、いわゆる、立ち行きを願ってゆかれたんです。そしたら、お供えぐらいな事じゃない。それこそ、商売繁盛して、それこそ、家を買われたり、土地を買われたり、または、もうそれはその後の事ですけれども、後ろのほうに、今、お神様の部屋になっておる部屋を作り増しをされたりという様なおかげになっておる。もう、それこそもう、椛目通いというものは、楽しゅうして応えんという時代だった。ね。あの時代ですよね、あの、中村喜久代というのを、漢字で喜久代という、これの一つのご神格ですよね。喜び久しい、けれども、この、喜びが消えると、後は、くよくよになるぞという様な御理解を頂いて、あの、頂かれた時代がございましたがです。そういう時分に、ある事を、一生懸命に願うておられたら、神様から、ね。おかげを頂き足らんごと思うとると言うお声。もう、とても、この神様に、ご無理をお願いして、どうぞどうぞてんなんてんて言うよりも、頂いておる事実をね。本当に思うたら、もう、お礼ばっかりで良いような感じ、ね。おかげを頂き足らんごと思うておる。そういう、それが立ちいっておる事のお礼をしっかり申し上げなばいかん、皆さん。ね。
人間というのは、欲な者ですから、ね。十(とんお)のおかげを頂けば、百のおかげをいただきたい。百のおかげを頂けば、千のおかげを頂きたい。ね。それは、まぁ、誰しも同じですから、そんならば、千のおかげを頂きたいなら、千の信心が出来るように願わにゃいかんですよね。ただ、おかげのほうだけ、迫力をもって願っただけじゃいかんです。ね。いわゆる、本当に、以前のことを思うたら、とにかくおかげ頂いておる。立ち行き方が良くなってきた。出て歩かんでも良い。座っとっただけで良い。あれもこれも成就したと思うただけでも、お礼だけ申し上げときゃ良いのだけれども、ね。お礼を申し上げることは薄いものになって、なにかそこに、願わんならん事だけが、強く大きくなって、一生懸命、その願い事をしておられたら、ね。おかげを頂き足らんように思うておる。ね。私は、ここのところが、分からせてもらわにゃいかん。
私は、中村さんに、私自身が、まぁ、大変な難儀な中に、もう、それも逼迫した中に、ね、その日その日が立ち行っておる。いうならば、まぁ、押しやり蹴やりで立ち行っておるという時代でした。ですから、私自身が、おかげを受けていないから、ね。例えば、お取次ぎをさせて頂くと言うても、ね。だから、私がおかげを受けておるという事ならです。もう、とにかく、心配は要らん。必ず、押しやり蹴やりであっても、必ず、立ち行くものと。だから、その日その日が、ただ、押しやり蹴やりでも、立ち行き合えすりゃ良かというなら、私も一緒に、まぁね、。お取次ぎと言うて、色々な言葉を、まだ、使わないし、まだ、本当に信者時代ですから。ね。私が、そういう道を、ならば、私が、毎日、おかげを頂いておることだから、教えてあげようと言うて、私の話を一生懸命聞かれた時代。
見てごらんなさい、私の財布の中には、もう、一銭も入っとらん。けれども、今日の夕方までには、幾ら幾ら、どうしても支払わんならんところがある。だから、どうしても支払わんならんもんなら、神様が、必ず、この財布に入れて下さるですよと言う様な生き方の時代です。ね。それが、不思議な不思議な働きを受けて、ま、どうでもこうでも払わんならんとこは、必ず、払わせて下さった。なら、そん次は、あん時は、こうこう、こういう様なおかげを頂いたと言うて、またお話をするのが、皆の大変な、魅力でもあった。神様は、生きてござるなぁと言うて、あの、いよいよ実感を、みんなが、私の話しで感じて下さっておった時代なんです。ね。そして、段々、立ち行くようになって、立ち行きようが良くなって、一生懸命、神様にお願いをしておられたら、おかげを頂き足らんごと思うとる。私共は、一生懸命、願わにゃなりませんが。願う前にです。やはり、おかげを受けておることの事実をね。本当に、心からお礼を申させて頂かねばならん。そして、願わせて頂くという事は、ね。今日一日の立ち行きでありますけれどもです。そのことは、どういう立ち行きか分からない。ね。
豊かな、例えば、その日暮しという事を申しますが、ね。百円のその日暮の人もおりゃ、千円のその日暮の人もある。一万円の、その日暮の人もある。ね。その日暮でも、その日暮の内容が違う。いうなら、私共は、まぁ、一万円ぐらいの、その日暮らしをしておるように思うです。毎月、やっぱり、私は、三十万の給料を貰わなければ、大坪の家は立ち行かん。ね。本当に、痕跡の神というですかね、二十年前のことを思うて見ると、夢のようです。ね。ですからね。どうしてそんなら、例えば、ね。百円のその日暮から、千円のその日暮から、一万円のその日暮が出来るようになったかと言うとです。どうぞ、ね。私達の親やら、また、子供達の手足が伸んで、それだけに、生活をしていかんならんために、どうぞ、生活のことをお願いいたします。もう、お米がございません、お金がありませんという様にです。無いならば、それを願っていくと言う事を、私が、果たして、したかどうかという事。一遍もしとらんです。私は。ね。ほんなら、もう、今日は、お米がなかなら、大豆のお供えば頂いとったじゃないか、もう大豆だけで良いじゃないかと言うて、大豆を煮てから、大豆だけを食べた。今日はもう、卵どん、沢山きとるけん、卵だけで行こうと、という様な時代も、やっぱあったです。ね。どうぞ、お米が無いから、お米をお願いします。だからそれを、私は、願っていかんという意味じゃない。そこでです。願わなきゃならん。痛いなら痛い、痒いなら痒いと願わなきゃおられませんから、願いますけれども、それこそ、御取次ぎを頂いてです。取り次ぎ助けてやってくれと仰っておられる。いわゆる、金光大神に対して、お取次ぎを願うわけです。ね。だから、願うことは、願ったら、願う取次ぎ者、金光大神に、ゆだねなければいけません。任せなければ。そして、教祖金光大神のご信心であるところの、ね。此方は、人が助かることさえ出来ればというのが、金光教の信心ですよね。ですから、金光大神の、例えば、生きられ方とか、あられ方とかいった様なものを、神習うことが、金光様のご信心だと言われておりますけれども。金光大神の、根本の、その精神というものを、私共は、神習わにゃいかんと思うのですよ。なら、金光大神の、根本的なお心というのは、問題は、人が助かることさえ出来れば良い。自分の目が出ようが出まいが、そんなことは問題じゃない。場合によっては、人が助かることさえ出来れば、自分の身を犠牲にしても良いという様なものが、その内容に、私は、おありになったと思うのですよね。
ですから、そういう教祖金光大神の御魂のところをね。私共が、頂いていかにゃいかんのです。ね。そこでです、ね。商売人ならば、お客さんが立ち行きますようにという願いよかにゃいかんという訳ですたい。ね。儲からんかな、売らんかなの為に、奉仕であったりサービスであったら、もう、奉仕サービスにはならん。お客さんが喜んで下さりさえすれば良いと言うのでなからにゃいかんですよ。ね。と言うて、それは、その人でならんというこっじゃ無いですよね。問題は、その内容です。お客さんに喜んでいただく、ね。お客さんが助かってさえ下さりゃ、いや、教祖金光大神が、ね。此方は、人が助かることさえ出来ればと仰る、そういう精神を、私共、生活の上に頂かねばならんという事が分かります。ね。人間関係の場合であってもそうです。ね。
昨日も、ある人の、まぁ、三角関係ち言うか、四角関係のお届けがあった。ね。それでまぁ、その方もお話をした事でした。ね。ただ自分が、歯がゆい、情けないと言うだけではなくてです。ね。その、四人なら四人が立ち行く様に願いなさいと、私が申しました。自分の楽になるように、自分が助かる様にではなくて、ね。もうそこに、四角の関係は出来ておるのであるから、ね。そういう係わり合いが出来ておるのであるから。その係わり合いのある、あなたを抜いてから、三人の人達がです、立ち行くように願いなさい。そのために、私が修行いたしますと言う気になりなさい。もう、絶対、あなたは立ち行きますよと、私が言うた。それをですね、もう、相手が憎うてたまらんとか、これば、抹殺したいごたる心ではね、自分自身が立ち行かんです。ね。と言うて、自分が苦しいことは、願っちゃならんかじゃないけれども、自分自身も、夜も日も寝られんように苦しいという事は、お取次ぎを願っている。願ったら、その代わり、こちらに任せなさい。そうして、ね。その係わり合いのある人の全部が、立ち行く、それだけに立ち行くようなおかげを願いなさい。ね。商売人は、どうぞ、今日も、ね。お客さんに喜んでいただくような商売をさせてくださいと言う願いなんだ。
私が、ね。百円から千円、千円から万円を、その日暮で出来るようになった。どうぞ、一万円の、その日暮が、立ち行きが出来ますようにと言うて、願ったことは、実をいうたら一遍も無い。ほんなら、私は、何を願って行きよるかというと、もう本当に、人が助かる、信者さんが助かってさえ下さりゃ良いと言う一念です。ね。その向こうにです。先日、ある、若い先生の話を聞かせていただきながら。もう、最近な、金光教の御取次ぎがね、御取り込みになってしもうたち。御取り込みの先生が多なったち。信者が、どうぞ助かりますようにと、願いよることだけは願いよるち、やっぱ。ね。願いよるばってん、おかげ頂いたなら、がばっと、お供えでんさせようち言う腹。教会が立ち行くことのために、信者が助かるようにと言うて願いよるとじゃん。ね。そういう汚い心では、おかげにならん筈だと、まぁ、私の話を聞いて下さって、そういう事を言われた先生がありました。だから、なるほど、信者が助かることだけを、もうとにかく助かりさえすりゃ良いのです。その人が、そこで信心をやめようが、お供えをしようがするまいが、ね。しかも、そのためにはです、人が助かることさえ出来ればという事の内容の中にはです。ね。自分の身は、ある場合には、犠牲にしてでもです、・・・。
もうあの、昔でしたが、あの、若先生が、高校試験の時でしたけれど、もう、あの時分の願いは、もう、全部成就しよりましたですね。だから、私は、ほんなら、自分の息子のことだけは、どうでも良いと言う願いでしたよ。いうならば、そん時にあの、お知らせをいただきましたのがね。あの、お芝居で、寺子屋のお芝居がありましょう。松尾マリが出てくる。ね。倅が役に立ったとぞいと言う、あれなんです。自分の子供を、犠牲にしてでも、相手を立てようとする生き方なんです。だから、その時分に、私が申しました。若先生が、いうならば、試験が出来ずしてから、それこそ、もう、男泣きに泣きよる。信者さん方、皆さん方は、もう本当に、若先生、感謝せにゃ、お礼言わにゃできんよと、私は言いよりました。本当に私は、犠牲にしようと思うたから、神様は、本当に犠牲にして下さった。という様な時代もありました、ね。そういう事は、また、私は、その後において、段々、変わってまいりましたけれどもです。ね。けれども、信者には、助けてください、おかげ頂かせてください。そして、信者が信心が出来ん、修行が出来んところは、私が修行いたしますからという事でした。そしてほんなら、この信者が、良か信者に育ってから、どうぞ、教会で、どんどんお役に立つごたる信者になりますようにてんなんてん、願いちゃ、これから先でも持ちませんでした。それが、私、合楽の人達、まぁ、ある意味で言うなら、あの、ゴヒレイであろうと、こう思います。ね。ところが、信者のことは、願うことは願うばってん、願って、良か信者を育てて、教会も立ち行かんなんために、信者が助かりますようにというのであっては、もう汚いです。ね。だから、教会が、立ち行くことは、もう、神様の世界であって、ね。私共の願いの世界というものは、私、取次ぎ者ですよ、ね。とにかく、人が助かることさえ出来れば良いのであると言う、教祖の御精神を、そこに、いよいよ、頂かせて頂くという事なんです。ね。
例えば、親子のことを願わん親はありませんがです。どうぞ、この子が立派に育ってから、親を安楽にしてくれる。親孝行させたいばっかりに、子供のことを願う親があるとするなら、これは、私は、本当の親じゃないと思うですね。もう、無条件です。子供が、幸せになってさえくれれば良いと言うのでしょうが。そこに、その次に、親も立ち行くところのおかげが受けられるのであって、親は、子供のことが立ち行きさえすれば良いという一念の願いでなからにゃいかんです。親が、楽しようと思うてから、子供の事でも願うようなことでは駄目です。商売人なそうです。ただ、儲からんのため、売らんかなのためにです。お客さんにサービスすると言うのであっては駄目です。ね。もうとにかく、商売人として、生まれたが最後です、ね。もう、商売人ですから、ね。相手のお客さんがです。本当に喜んで、沢山のお客さんが喜んで頂けるような商売人になりたいと言う願いでなからにゃいかんです。百人のお客さんよりも、いうなら、五百人のお客さんが、喜んで頂けれる。
私は、金光様のご信心の、いよいよ、根本的なところがですね。そうでない、金光大神の御魂の後を辿らせて頂くのが、こら、金光教の信心です。それが、金光様の形のところだけを、ね。御あられ方ばっかりば辿りよるから、精神が分からんなりに、信者の事を願いよるばってんが、ね。教会が立ち行くことのために願いよるとじゃ。下作かもん、ね。それじゃ、神様の心を動かすことは出来ません。ね。
そこでです、皆さん、ね。相手のことが願えれるという事は、そういう事なんです。自分が楽になるために、相手のことを願うのじゃないです。相手が楽になって下さる。相手が立ち行く事のための願いです。ね。もう、これはね、絶対、自分が、もう、最高に立ち行くことのための、これはもう、秘訣です。ね。たらいの水を向こうに押せば、水は、必ず、こちらに返ってくると言う理です。それに、自分のほうにばっかり、水ば、こうこやって、引こうとする。もう、自分たちばっかり願うから、水は反対のほうに、向こうに逃げていくようなもんです。私は、ゴヒレイの立たん教会は、そうだと思うですね。そら、そうに修行してから、お願いしてござるばってん。ただ、教会が立ち行く、教会の会堂ば、大きゅうせんならん、ね。もう、先生達が計画しよる。もう本当に、神様を、ヒノキの香のぷんぷんするような御社にお祭りさせていただかなきゃ相すまん。なるほど、言葉は良かでしょうが。けども、自分が、そうしよる。私が、椛目時代にです、お広前が、どんどん広がっていったばってん、あん、神様は、小さい御社でした。あの御社が、大きゅうならんならんて、言うた事が無かったでしょうが。神様は、そんな神様じゃなかです。問題は、信者が助かりさえすれば良いのじゃから、信者のほうのお広間のほうが広がりさえすりゃ良かと言うのが、私の主義でしたけれども、その主義は、間違っていなかったと自分で思います。
建てんならんと言ったって、ね。とにかく、信者が助かることさえ出来ればと。これだけで良いのです。けれども、ほんなら、こら皆さんの場合です。ほんなら、お客さんが立ち行きさえすれば良いのだけれども。自分自身のことも、やはり、気になったり、心配になったりするならです。痛いなら、痒いならばです。その事は、お取次ぎを願わにゃならん。ね。願っても良いです。けども、願ったが最後は、こちらのほうへお任せなさいち言う訳。そして、願うことは、自分の相手、係わり合いのある人達の立ち行きを、一生懸命願いなさい。ね。それが、金光教の根本精神です。教祖の神様が、人が助かることさえ出来ればと仰ったのは、それなんです。ね。自分ば、見てもらおうと思うて、助かりますように、ね。子供が成功すると、親も楽が出来るから、子供が成功しますように。そげなことじゃ出来んて。金光大神の願いは、そんなもんじゃないです、ね。ただ、人が助かりさえすりゃ良いのである。こっちの助かるさえすればじゃ無い。こっちの助かりは入れんでも良い。ね。
そこでです、やはり、実意丁寧神信心いたしておる氏子。いわゆる、金光大神のことです。でなからなければ、こういうお取次ぎは出来ないと言うことになるです。そこで、ほんなら、その金光大神のお手代わりをさせていただく、ほんなら、私共もです、ね。実意丁寧神信心をさせていただいてです。取り次がせて頂くという事は、お取り込みのための取次ぎではなくて、ね。もう、人が助かることさえ出来ればという、金光大神の、その精神を基にして、祈らして貰うのであり、願う。場合には、自分を犠牲にしてでも、場合には、信者が出来んところは、私が代わって、修行させてもらうからという様なところから、私は、氏子が助かる。そういう、また、助かりで無からなければ、神も助かり、氏子も立ち行くとかね。氏子繁盛いたし、氏子繁盛いたし、氏子が繁盛さえすればです、ね。末々、親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立ち行くと言うことにならんのです。ね。それは、そういう一つの、理があるです。一生懸命、向こうへ押せば、向こうから返ってくるというおかげなんです。それを、こちらのほうへ。だから、私共は、願う時にです。中村さんじゃないけれども、ね。おかげば頂き足らんごと思っとらせんだろうかと。その日その日の立ち行きという事をです。もう、心の底から、お礼を申し上げさせて貰うて、そして、商売人であるなら、お客さんが立ち行く様にです、ね。嫁姑の仲が悪いならば、姑親が立ち行くように、嫁後が立ち行くように、そのことだけを願ったらいいのである。ね。そこから返ってくるおかげがです。ね。本当に信心も出来ませんのに、この様なおかげを頂いてと言うおかげになってくる。
その日その日の立ち行きがです、ね。百円から千円、千円から万円の、その日暮が出来るようなおかげを頂くためにです。ね。私の信心を、聞いてもらったわけですよね。今日はその、立ち行くと言うこと。だから、立ち行くことには、自分の立ち行きを願っちゃならんじゃなくて、願ったら、任せなきゃならん。そして、むしろ、ね。自分の周囲の人達が立ち行く事を、本気で願わせて貰えれる信心になる。それが、教祖金光大神のご精神であると思うのですよね。どうぞ。